土地には歴史と、それにともなう物語がある。
人々に選ばれ、愛されてきた地は、華やぎや繁栄が繰り返され、その雰囲気は現代になっても感じとることができる。
ここ内藤町も、そんな由緒が漂う場所のひとつ。時代に培われてきた誇りが息づいている。
「江戸切絵図」内藤新宿・千駄ヶ谷辺図
内藤町という地名は、江戸時代にこの一帯が高遠藩主である内藤家の中屋敷だったことに由来している。天正18年(1590年)に徳川家康が江戸城に入城した際、譜代の家臣であった内藤清成に江戸屋敷の一部を授けた。内藤家の祖先は藤原鎌足とされ、鎌足を祀った多武峯内藤神社(とおのみねないとうじんじゃ)も、町内に現存している。家康から授かった土地は、東は四谷、西は代々木、南は千駄木、北は大久保に及ぶほどの広大さを誇ったという。しかしそれは内藤家の石高に比べればあまりに過分であったため、1968年に多くの部分を幕府に返上している。このとき返上した土地に甲州街道の新しい宿場街が設置されることになったが、内藤氏の屋敷地であったことと、新しい宿ということで「内藤新宿」と名付けられた。これが新宿の地名の起源となっている。
屋敷街[2018年8月撮影]
「名所江戸百景」玉川堤の花
提供:国会図書館
「名所江戸百景」四ツ谷内藤新宿
提供:国会図書館
内藤町のシンボルとなっている、新宿御苑の豊かな緑。新宿御苑は、明治政府が内藤家から上納された広大な屋敷跡と買収した隣接地を合わせた約58.3haの敷地に、近代農業振興を目的として明治5年(1872年)に設置した「内藤新宿試験場」が起源。後に「内藤植物御苑」として運営されるも、明治35年(1902年)から4年の歳月をかけて大きく改造し、明治39年(1906年)に完成したのが新宿御苑。当初は皇室の庭園として利用されていたが、昭和24年(1949年)に国民公園と定められて、一般に公開されるようになった。
西洋庭園 提供:新宿歴史博物館
旧玉川園・副都心高層ビル 提供:新宿歴史博物館
江戸幕府で関東総奉行や江戸町奉行を歴任した内藤清成が、徳川家康から現在の新宿御苑とその周辺の広大な土地を拝領。慶長7年(1602年)、この屋敷内の地に家祖である藤原鎌足公を祀った内藤神社を創建したという。明治時代、内藤家の屋敷地(新宿御苑)は宮内庁管轄の官有地となり、明治16年にいまの地へ遷座。昭和42年に多峯武内藤神社(とおのみねないとうじんじゃ)と改名したといわれている。
多武峯内藤神社[2018年8月撮影]